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禅の暦
Calendar of ZEN
監修 小林窟山主 井上希道老師
禅
語
ぶっしょう
仏性
不生・不滅・不垢・不淨・不増・不減
作り手も作られ手もない。因縁いんねんの必然として活動する妙智力。自ずから塩は辛く砂糖は甘い。立つも坐るも、日常の生活が既に仏性の姿であり、存在全て仏性の様子です。
この事が分からないのは、「自我」という「心の悪い癖」が邪魔をしているからです。
では、如何いかにすれば仏性に目覚めることができるのか?
禅
語
じせつのいんねん
時節の因縁
作り手も作られ手もない。因縁いんねんの必然として活動する妙智力。自ずから塩は辛く砂糖は甘い。立つも坐るも、日常の生活が既に仏性の姿であり、存在全て仏性の様子です。
この事が分からないのは、「自我」という「心の悪い癖」が邪魔をしているからです。
では、如何いかにすれば仏性に目覚めることができるのか?
禅
語
これなにものか いんもにきたる
是什麼物恁麼来
禅問「自己の正体」をたずねたことば
この問いは名前や肩書を聞いているのではありません。「本当の自分」、つまり「仏性」が本当に分かっているか否かを試す問いであり、それがそれであることを教えているのです。電信柱は電信柱です。問うまでもなく、答えるまでもないのです。「心の悪い癖」があるかぎりそのことが分からないのです。
まずは師に参じて正法をよく聞き、教えの侭ままに努力することです。
禅
語
じんかいはすべてかくじんなし
尽界はすべて客塵なし
一切、汚れなどは無い。
参師聞法と只管打坐を怠らねば、「行のまねく処は証なり」です。モヤモヤしたものがおのずから消えるのです。すべて有りのままであったと確信した境地です。言葉を替えていえば、「本当に安心した。他が気にならなくなった。」と言うことです。
「断ずべきを斷ぜざれば、後に乱を起こす」と。
禅
語
とうかん
当観
あるがままを観る。
物事は余念なしに観ることが大切です。純粋無雑に目覚めよと暗示しています。観るとき観るものがないことが分からなければ当観できません。
「見るままに また心なき身にしあれば 見ると言うだけ時の盗人」(道元禅師)。
「手に取るな やはり野におけ 蓮華草」。そのまま、そのまま。事実を穢けがさぬように見聞けんもん覚知かくちすべきだと理解したら最高です。
禅
語
かならずごつざすべきなり
かならず兀坐すべきなり
ただ一心に坐禅する。
道元禅師様は、「心を調御することもっとも難がたし」と言われました。何をしてもうまくいかないのは心が散漫しているからです。まずは背筋を伸ばし、呼吸を整えてどっしりと兀坐ごつざしましょう。兀坐してはじめて「心の悪い癖」が調御じょうごされるのです。
禅
語
かいびんなんぽうなり
快便難逢なり
またとない機会。
快便とは良縁を結んでくれる乗り物のことです。そのような乗りものに出逢うことは大変難しいのです。仏法に遇うことはとても難しいということです。しかし仏法でない物は無いので、この「今」の快便に乗ればよいのです。「今」以上の快便は無いのです。しかし快便に乗るには菩提という特急券が必要です。
禅
語
しつうはぶっしょうなり
悉有は仏性なり
すべて仏性。
如何様にあろうとも全て仏性の姿です。あらゆる存在が仏性です。この真相が分かると自ずから報恩感謝が横溢し、不平も不安も無くなり慈悲の人と成るのです。これ以上の「道」は無いので修養をゆるがせにできない理由があるのです。 仏道修行は悉有仏性であることを体得するためにするのです。既に仏性ですから成り切れば分かるのです。
昭和15年、広島県竹原市忠海床浦、勝運寺住職・井上干兮の次男として生まれる。中学1年より、愛知大学哲学科卒まで豊橋市全久院に安居。24歳より井上義光・井上大智に22年間師事。昭和56年、海蔵寺住職。昭和59年、少林窟道場第5世となる。